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日本文化:日本概况(日文)14课

时间:2008-10-20 13:41:00  来源:本站原创  作者:maggie

 

第14課 敗戦から民主国家への道

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 日本の国民は8月15日の天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言受託を告げられた。国民は涙を流しながら天皇の肉声を聞いたが、それまでの好戦的な姿勢からすると信じられないほど従順に敗戦を受け入れた。国民はもう戦争に疲れきっていたのである。

 思えば、この戦争ほど無证怯蓼蕬檎悉胜盲俊H毡兢沃笇д撙郡沥稀ⅳ长螒檎蠔|アジアから植民地支配しているヨーロッパ人を追い出し、アジア人が共に繁栄する「大東亜共栄圏」を建設するためだとして、日本人だけでなく、朝鮮人も中国人も、日本統治下の全アジアの人々をこの戦争に狩り出した。しかし、いかに美辞麗句で粉飾したにせよ、それはアジアをめぐる帝国主義国間の植民地分割戦争以外の何ものでもなかった。

 日本の占領は連合国によって行われるはずであった。しかし、占領政策を実際に決定・遂行したのは、マッカーサーを最高司令官とするGHQであり、それはとりもなおさずアメリカそのものであった。GHQは神格化された天皇制を残したままでは、日本の民主化はできないことを熟知しており、1946年1月、天皇に人間宣言を行わせた。ここに「現人神」天皇は、ただの人間になったのである。続いてGHQ草案をもとにして日本政府が作成した日本国憲法が、1946年11月3日に公布、翌年5月3日から施行された。それは、主権在民、平和主義、基本的人権の尊重を三大基本原理とするもので、天皇は日本国民統合の象徴とされた。

 この憲法に基づいて、婦人参政権の付与、労働組合の育成、教育の民主化、経済の民主化など、一連の民主改革が行われた。治安維持法など圧政的諸法が撤廃され、日本軍国主義の基盤を成した三井、三菱、住友、安田の4大財閥は解体され、地主制も農地改革によって、ほぼ消滅した。

 このように国内法を整備した上で、GHQは1946年4月、戦後第1回目の総選挙を実施した。この選挙では、参政権が認められた女性候補も79人が立候補し、39人が当選した。選挙の結果は自由党が第一党となり、自由党の吉田茂が首相に選ばれた。この吉田茂こそ、日本の戦後の保守派を代表する政治家として、5回にわたり内閣を組織し、サンフランシスコ平和条約、日米安保条約など、戦後の日本の枠組みを作った人物である。

 しかし、GHQによる日本の民主化政策と非軍事化は1948年を境としてしだいに変化を始めた。それはヨーロッパでアメリカとソ連の対立が深まり、東西冷戦が始まったからである。中国においても、中国内戦は国民党より共産党・人民解放軍が圧倒的に優勢に進んでいた。GHQは日本を極東での反共の防波堤にする必要に迫られた。GHQは先ず日本経済安定のための「経済安定9原則」を発表し、新経済政策「ドッジ・ライン」(1949年)を実施した。この財政金融引締めと対外為替レートの固定化(1ドル=360円)政策は功を奏し、インフレは収束し、企業経営の合理化、資本の蓄積が促された。一方で、マッカーサーは「ソ連の手先、共産党の撲滅」を宣言し、共産党員の公職追放を強行した。これはレッドパージと呼ばれるが、この弾圧によって、教員、公務員、民間企業などで3万人に及ぶ人々が職を追われた。

 1949年、「中華人民共和国」が誕生し、アジアに初の社会主義国が生まれた。朝鮮半島では38度線を挟んで、「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮と「大韓民国」(韓国)という分裂国家が誕生した。1950年6月25日、この国境線が突然火を噴いた。朝鮮戦争の勃発である。

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新しい文型
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~からすると
~きる
~ことだろう
~ほど~はない
~にせよ
(~した)上で

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